概要
富士宮市は富士山本宮浅間大社の門前町として古くから富士登山の起点として栄え、明治から昭和初期にかけての養蚕、蚕糸産業の隆盛で大きく発展しました。
浅間大社は富士山を神体山と仰ぎコノハナノサクヤヒメノミコトを御祭神に奉る全国千三百社の浅間神社の総本宮で、その歴史は古く、平成18年には鎮座1200年を迎えました。。
富士宮まつりはこの浅間大社秋季例祭に、氏子町内が祭り囃子を賑やかに囃しながら山車や屋台を引き回し、収穫と一年の無事を感謝するものです。11月の3日から5日まで行われ、勇壮な競り合いを売り物に20の町内が実施しています。
浅間大社で前日祭が行われる初日の3日には豊作と1年の無事を感謝し、これから行われる祭りの安全を祈って宮参りが行われます。山車は町内に残し、祭りの参加者が隊列を組み太鼓を担ぎ、道囃子を囃しながら大社に詣でます。お祓いを受け、全区囃子方による囃子が奉納された後、御幣を受領し、大宮木遣りに送られて帰途につきます。
宮参りから帰着後、引き回しが行われます。要所要所で踊りを披露し、競り合いなども夜まで賑やかに行われる事から、祭りの初日は“宵宮”と呼ばれています。
浅間大社で本祭が行われる中日の四日には浅間大社周辺に山車・屋台を集結させ、“本宮”が行われます。
勢揃いの後浅間大社前で式典を行い、一斉に囃子を奏した後に踊りを踊ります。その後山車を移動させ目抜き通り各所において勇壮な競り合いや踊りなどを繰り広げます。
浅間大社で後日祭が行われる最終日には、全区による合同の催しはありません。
自町内主体に引き回しを行い、全ての行事を終えた後、浅間大社に御幣を返納し祭りを終えます。
◎この祭りで囃される富士宮囃子は、平成7年3月に静岡県の無形民俗文化財に指定されました。
特色
山車と屋台
富士宮まつりでは山車と屋台が引き回されています。山車と屋台は全国的にもその呼び分けがまちまちであったり、はっきりと定義するのはなかなか難しいものですが、富士宮市に於いては、迫り上がり構造を持ち人形などの飾り物を載せている物を山車、1層で飾り物がないものを屋台と呼び分けています。
屋台には上面を舞台とし縁の下に囃子が入るものと底抜け屋台と呼ばれる屋根付きの台車から発展したものの2タイプがあります。
山車のタイプで富士宮型といった定型は特に無く、それぞれ個性があります。明治44年に根古屋より購入したという3輪の山車以外はすべて4輪で、新たに作られる山車は大型化の傾向があります。
引き回し
浅間大社で受領した御幣を山車や屋台に祀り、隊列を組み祭り囃子を賑やかに奏し自町内を主体に引き回します。近年は引き回し区域も隣接区から周辺に拡大する傾向があり、相互に訪問するなど親睦を深めています。
富士宮囃子
歩きながら囃す囃子を”道囃子”と総称し、浅間大社への宮参りの道中などに”籠丸”、”通り囃子”などが囃されます。
屋台囃子は踊り屋台の踊りの伴奏の事ですが、近年聴く機会が減っています。
山車囃子は山車の運行で囃される囃子で、通常の引き回しの際は山車屋台の行進曲とも言われる”にくずし”を囃します。
競り合いでは”屋台”が囃され、昔は競り合いを巡って喧嘩沙汰が多かったことから”喧嘩囃子”とも呼ばれます。
踊り
富士宮の曲(”富士宮音頭”、”富士宮秋まつり歌”、”富士大宮”など)を基本に置き、それぞれの町内が楽しむために様々な曲を踊っています。
嬉々として踊る姿も、この祭りの見どころの一つです。
競り合い
古くから山車がすれ違うことも出来ない道路で鉢合わせして進路を争う際に、囃子で競り合いました。
そのために、囃子方は腕を磨き長時間の競り合いにも耐えるよう練習に励みました。
熱中のあまりもめ事に発展することが多く長期にわたり実施が控えられていましたが、青年協議会発足後は時間を決め勝敗を付けないと言うことで実施が勧められ、近年ではその勇壮さが売り物となって盛大に行われています。
歴史
「祭」の字が肉を神前に捧げ持つ様を表すように、祭りの根本は祈りです。つまり神事として行われる神社の祭りがあり、氏子町内が囃子を奏しながら山車や屋台を引き回すことを富士宮では「つけ祭り」と呼びます。秋の収穫に対し感謝する神事としての秋祭りは浅間大社が祀られた当時より行われていましたので、約千二百年の歴史があります。一方、氏子町内の山車や屋台を引き回し、囃子を奏でる引き回しの歴史は記録や資料に乏しく定かではありませんが、現存する記録からは江戸時代末期まで遡ることが出来ます。
江戸時代浅間神社の大祭礼は四月と十一月の初申の日と九月十五日でした。明治五年十二月三日をもって明治六年一月一日にするという太陰暦から太陽暦への改暦は全国の祭礼実施に大きな混乱を生じました。一月近くのずれは季節感を大きく損なうものでしたから、思いなやんだ末に浅間神社は県庁に対し伺いを立てました。その結果、その年の新暦十一月四日が庚申であったことからその日を大祭と定めることが允許され今日に至ります。
当時の造り酒屋当主の日記「袖日記」には「家臺」や「ダシ」という記述が見られ、万延元年(西暦1860年)にはすでに引き回しが行われていたことが推察されます。
また天保三年(1832)9月と書かれた咲花の祭典の御通が見つかりました。
いわゆる秋まつりのものでは無いかも知れませんが、当時すでに氏子町内が組織的に祭りを行っていたことがうかがえます。
明治時代中頃はまだ実施組織が少なく神田川以西に「湧玉」、以東に「磐穂」「咲花」といった祭り組織があったにすぎないといわれています。後に分離独立する際にたとえば「湧玉」の囃子を受け継ぐ、あるいは「湧玉」の分かれであるいった意味合いから、新たに独立する川西の町内は「湧玉○○」と名乗りました。このようにこの名は今でも祭り組名の頭に親名として残っています。
明治末期に国が青年組織を奨励したことから、大宮町でも大宮青年団が組織され、分団という地域割りがなされ、それが今日の祭り組の原型になりました。この分団ごとの対抗意識から後に続々と新しい祭り組が誕生し、蚕糸産業の隆盛による町の拡大の勢いを得て昭和初期には祭りの爛熟期を迎えました。
当時は現在のように毎年祭りを行う事はなく、持ち回りの当番制をとっており、当番に備えて衣裳新調のために積み立てをするなど備えていました。この当番制は昭和三十年代初め頃までは続いていたようです。
数年に一度回ってくる当番制で行われた頃は、当番町内は町を一巡するのが習わしだったと言われています。遠くまで引き回して回りきれないこともあり、そこの町内に山車を預けて帰り、預かった町内は寝ずに山車の番をしたとのこと。
現在は市域も拡大した上、ほとんどの区が毎年実施するために、くまなく市内を一巡するということは無くなりました。
本宮共同催事が運行の中心におかれ、浅間大社周辺に集結するその数の多さから山車の運行が互いに調整されています。
昭和初期、静岡県下の花柳界で一番の隆盛を誇ったのが大宮の花柳界でした。芸妓置屋を持つ町内は山車には乗せないものの屋台に芸者衆を乗せ三味線や太鼓の入った屋台囃子を囃させ引き回すなど祭りにも新たな囃子が競って取り入れられました。
昭和15年に紀元二千六百年を祝った後、戦時中は祭りは休止となりました。
戦時中の昭和十七年に富丘村と大宮町が合併し、富士宮市が誕生しています。
戦後祭りは再開されましたが市制施行の影響か実施組織に多少の変動が見られます。
昭和30年代は行政区の分離独立が相次ぎ、単独で祭りを実施するための組織力が低下していました。加えて暮らしに追われ余裕が無く祭典の寄付や祝儀に対する反発。暴力追放運動の高まりなど祭に対する風当たりも強くなり、趣味の多様化と価値観の変化などによる青年層の祭り離れが重なって、長期にわたり低迷することとなりました。
この時期、山車の保管場所に困り解体焼却、あるいは売却する町内が相次ぎ、引き回しも数区が行う程度でたいへん寂しい状態が50年代初期まで続きました。
この低迷に歯止めをかけようと、昭和40年11月4日には文化連盟が音頭をとり市立公民館で「富士宮ばやし保存発表会」が行われました。41年2月に保存会が富士宮市長を会長に盛大に発会し、様々な活動を繰り広げ、41年8月には富士宮囃子が富士宮市の無形文化財に指定されました。
鳴り物入りで発会した富士宮ばやし保存会でしたが、無形文化財指定後の活動は数年で尻すぼみとなり、組織を改めることとなりました。旧保存会で技術指導を担当されていた方々が「湧玉会」という会を作り、保存活動や復興を模索する祭組の囃子の技術指導にあたられました。この長い低迷期の囃子の中断は旧囃子方の散逸を招きました。祭りを再開しようにも囃子が無くては山車が引けません。こういった町内の囃子指導に気軽に出向いて、親身に指導された富士宮ばやし保存会「湧玉会」の遠藤氏、有賀氏、他のみなさん方のご尽力の甲斐あって、昭和50年代に入って祭りは徐々に再開され、次第に盛り上がってきました。
一時期暴力や青少年の飲酒の温床とやり玉に挙げられ、目の敵にされた祭りでしたが、地域社会における世代間交流、伝統文化の継承など、祭りの見直し機運が全国的に高まったことを一つのきっかけとして活発化しました。加えてオイルショックによる青年層のUターンが、祭り復興の大きな原動力となったことは見逃せません。
その青年層の盛り上がりは昭和61年秋祭りの後に”秋祭り青年協議会(現富士宮まつり青年協議会)”を発会させました。地元の祭りをもっと広く世間に知らせたいという願いで競り合いを見せ場に共同の企画を模索しています。
山車の新造も相次ぎ、こういった祭りの盛り上がりに刺激されてか今までの旧祭り区域外からも新たに祭りに参加する区が出てきました。現在20の区が祭りを実施しています。
展望
山車の新造などで使わなくなった屋台を贈られ、そこから新たに祭りを始めた町内では、自前の山車を新造するなど大きな盛り上がりを見せています。
空洞化する地域ではかつて祭の復興を支えた世代も徐々に高齢化し、一方で祭りや地域を担うべき若者の流出はなかなか止まりません。囃子をよく覚え、将来の祭りを託せると期待していた子供たちが、進学で地元を離れそのまま異郷に根付いてしまう事が多いものです。
昭和50年代からの祭り復興が示すとおり、町に活気を与えるのは若者です。地方に共通する悩みは旧中心市街の空洞化で、そこでは祭り実施もまた危機に瀕しています。これを救うのはひとえに若者の回帰です。
若者の雇用を生み出す新たな産業の創出が待たれる所以です。