歴史

富士宮まつりの歴史

歴史

浅間大社が祀られてから、一千二百余年が経つ。収穫に感謝する秋祭りは創祀された当初より行われていたはずだから、浅間大社の神事としての秋祭りはじつに一千二百余年にわたって行われてきたと言える。
氏子の行う祭りに関する記述は江戸時代の造り酒屋当主の書いた袖日記に見られ、万延元年にはダシや屋臺という言葉が書き記されている。山車や屋台の引き廻しには囃子が付き物ゆえ、当時すでに囃子が囃されていたと推測されるが、残念ながらそこまでの記述はなく詳細については不明である。
囃子の由来については諸説あるが裏付ける材料に乏しいものが多く、袖日記と明治以降の記録に頼らざるを得ない。その「袖日記」によれば当時大宮においてもダシや屋臺が引き回されていたととれる記述があり、祭り提灯の新調のために若い者が無心に来たなどの記述も見られる。しかしながらどのような演目が奏されたかについては記述にも残っておらず不明である。

青年組織と祭り実施

富士宮(旧大宮)の秋祭りと囃子にとって大きな動きは明治末期に見られる。国策として青年を組織することが奨励され、大宮青年団(お祭り青年)が組織された。各分団毎に祭り実施の気運が高まると、ある分団(町内)では山車を新調し、またある町内では郡内の他町から屋台を借りるなどして盛んに祭りを実施した。こうした動きは明治44年に顕著に見られる。

囃子の流入

大正、昭和の御大典には山車を新調する町内も多く昭和初期の蚕糸産業の発展で祭りもますます盛況を呈した。当時の花柳界は県下随一を誇り、芸妓の祭り参加などにより三味線の入る屋台囃子や道囃子などの新たな囃子が加わった。

戦中の休止

第二次大戦中は祭りは休止状態となるが、昭和17年の市制施行により、行政区画定などで祭り組の編成に多少の変化が見られる。
※例 ー 戦前高嶺と御幸(社人町と福住町合同)は別の祭り組であった物が戦後(市制施行後)は宮本となっている。

再開

戦後まもなく祭りは実施されている。

低迷と復興

昭和30年代後半から昭和50年代にかけて祭りは低迷した。引き回しを行うのは2-3区ときわめて少なく、この祭りの低迷に歯止めを掛けようと富士宮ばやし保存会が発足した。昭和40年8月13日には富士宮ばやしが富士宮市無形文化財に指定されている。市長を会長に鳴り物入りで発足した保存会であったが、活動は1-2年で停滞したため、組織を改めて技術指導者達で囃子の復興保存にあたるようになる。
祭りの長期休止などにより囃子経験者が散逸したために復興の気運はあっても囃子ができないという町内があった。こういった町内(祭り組)の囃子と祭りの再興に尽力されたのが富士宮ばやし保存会「湧玉会」の皆さんだった。
50年代に入ると各地域で徐々に祭り復興がなされ、新たに祭りを実施する町内も出てきて、61年の祭りの後には秋祭り青年協議会が発足し、祭典実施区は20を数えることとなった。

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