演目

演目

概要 由来 演目 楽譜


山車囃子     山車の運行時に囃される
にくずし
屋台
昇殿(聖天)
屋台囃子    三味、鼓が入るもの。 芸妓の踊りの伴奏
聖天(しょうでん)- 井上氏による
四丁目(シチョウメ)
道囃子     本来歩行時の囃子全般を「道囃子」と総称した物らしい。
道囃子
宮参り
籠丸(籠毬)
数え歌
竹雀
関連記述
山車囃子と屋台囃子
 明治四十四年の浅間秋祭り。当時尋常小学五年生十一才の私は社人町(宮本町)の子供連として揃ひの祭り衣装を着せて貰い、練り物の綱を曳いた。当時社人町は戸数人口すくなく単独でお祭りを催すことに、諸般の事情が許されなかったものか、寺地(寿町)と合併して“寿”の祭り組名の下に一切が運営された。
練り物の屋台は、今泉方面からの借り物であったと記憶する。囃し方も、駿東郡浮島村根古屋から三名の囃子連を招聘、是に、村松、赤堀等の先輩が弟子格で参加編成された。屋台故当然、踊りの演し物が必要で、この踊りには、大宮には杵家、常磐家という芸妓置屋二軒のみで、総勢すぐって五六名ではどうしょうもなく土地の芸妓は断念して、町内青年の外木幸太郎氏夫人の実家藤浪氏が江尻の実力者であるのを、勿気の幸いと、その方の斡旋で、地方(じかた)立方(たちかた)の腕達者六名は、全員江尻芸妓を以って組織された。併し、祭り囃子は、笛大太鼓(大胴)小太鼓(きん胴)当り鉦(よすけ)四種は五六名の構成で独立演奏された。
参加芸妓の三味線は、飽くまで舞踊へのもので、此の点“祭り囃し”と“三味線”は終始、別のものとして隔絶、判然と其の一線を画したという厳格さであった。

村上喜美氏「大宮浅間秋祭り大宮祭りばやし夜噺」より

写真は明治44年秋祭り 祭り組「寿」による歌舞伎出し物に扮しての記念撮影

昭和初期の流入
 明治末期に大宮青年団(お祭り青年と呼ばれた)が結成され、各分団毎に祭り実施の気運が高まると、ある分団(町内)では山車を新調し、またある町内では郡内の他町から屋台を借り祭りを実施した。 この頃のお囃子演目については村上氏の「大宮浅間秋祭り祭囃子夜噺」に見ることが出来る。 昭和初期には蚕糸産業の盛況で大宮町は大いに発展し、芸妓置屋の数も県下随一を誇った。 この頃芸妓参加を認めたので屋台囃子など三味線の入る囃子が増え、祭りも爛熟期を迎える。 井上歳丸氏は「囃子方の弁」として新聞に投稿している。 囃子には大まかに分けて3種類あり、歩行時に囃す「道囃子」、屋台で芸者衆の踊りの伴奏として囃される「屋台囃子」、山車の引き回し時に囃される「山車囃子」がそれである。

「聖天(ショウデン)」「四丁目(シチョウメ)」とう三味、ツヅミなどが入って屋台ばやし、「ニクズシ」、「ヤタイ」が山車ばやしと

間違えやすいのは「屋台」は「屋台囃子」ではなく、「山車囃子」なのだと言うこと。

道囃子と混称

「竹雀(タケス)」「篭毬(カゴマリ)」「カゾエウタ」とうは道ばやしで三味線が入って種類は多少違っても全国的なものであり、どこまでも歩行の道ばやしであって座って打つはやしではありません。

はやし方の弁 井上氏


つまり歩きながら囃す曲目は「道囃子」と総称され、「籠毬」「数え歌」「竹雀(たけす)」等が上げられるというのだ。 一方で「道囃子」「宮参り」と呼ばれる囃子が町内によって全く逆になっているケースが見受けられる。
囃子は口伝の文化である。聴いて唄って覚えるもので、教わらずとも曲を覚えればそれぞれのレパートリーとして組み入れられて言ったのものだろう。だから「囃子を盗む」などとも形容されたようだ。
そんなことからもっともポピュラーな「籠丸(あるいは籠毬)」を本来歩きながら叩く曲の総称である「道囃子」と呼んだり、浅間大社への宮参りに叩くから「宮参り」と呼んだりと混乱が生じた物と思われる。

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