大宮浅間秋祭り 夜噺

参考文献

袖日記 大宮浅間秋祭り夜噺 囃子方の弁 富士宮囃子1 富士宮囃子2
 加藤長三郎氏講演 笛今昔 秋祭り 英文解説

伝説・こぼれ話

富士宮の特殊事情 物騒な話 湧玉囃子 血染めの笛 鉾立石
神田川原にのろしを上げて 露店が無かった祭り


大宮浅間秋祭り
大宮祭りばやし     夜噺
村上喜已

一昨年秋頃、大宮祭りばやし保存会が結成され、十一月の浅間秋祭りの催しの一つとして、富士宮市公民館に於て、市内各区の「囃し組」による結成記念発表演奏会を華々しく行った。
満場の視聴者を前に、精魂をこめて熱演される「大宮ばやし」を聴きながら、私は幼時を回顧してひとしお懐旧の情に堪えないものがあった。そして、斯のような美事な旋律をもつ「大宮ばやし」を私達に守り伝えてくれた、今はなき多くの郷党先輩の遺績を心から讃仰しつつ、是等先輩のご冥福をしみじみと祈ったのであった。と同時に、郷土富士宮市が持つ、唯一の芸能遺産ともいふべき、此の「大宮ばやし」が大切に守られ保存されて誤りなく後世に伝承されるようにと、心ひそかに、希わずには居られなかった。

ところが此の時既に、“審査委員会”なるものが出来て居て、出演の「囃し組」の中から数組を審査撰定して、是を「古くより伝はる大宮祭りばやし」の代表として、甲府市、静岡市等の郷土民芸大会に参加出演せしめたのであった。が、この審査撰定された「囃し組」の中に、江戸末期より寄席小屋の、曲芸、手品等の陰の囃として発生し、現今なお盛んに用いられて居る所謂「寄席の下座囃し」の亜流に属する三味線音曲をも「古くより伝わる大宮の祭りばやし」の代表としてとりあげ、態々、他市他県にまで出張出演させたのは、いかなる理由、根拠に因るものか、まことに諒解にくるしむ。

続いて、今年三月、又々「古くより伝わる大宮ばやし」の純粋な型を、物足りぬとした認識不足から、これに歌舞伎の桧舞台に於て常に演じられている程の、高い格調と伝統を誇りとする日本舞踊の西川、藤間、花柳等の流派の“振り付け”を「大宮ばやし」の“にくずし”“やたい”の曲に嵌め込んでこれを「古くより伝わる大宮祭りばやし」であるとして、焼津祭りに参加出演せしめ他市の人々の鑑賞に供したことは恰も“田舎蕎麦”の純朴な滋味をと希望する客の前に、蕎麦のみでは膳が淋しいとて、いっぱし気を利かせたつもりで“鯛のうしほ”を輪島塗りの蒔絵のお椀に盛り添えてすゝめた、という噺と、よく似ている。
しかも、是は、今春の二月十二日に「大宮祭りばやし」が市の無形文化財としての指定を受けて間もない頃の、四月八日九日の事実であるだけに、一層、保存会の運営に当る方々の「古くより伝わる大宮の祭りばやし」に対する感覚認識の程度に、私は納得がゆかないのである。
貴重な、郷土唯一の無形文化財「大宮祭りばやし」を正しく誤りなく保存伝承せしむべき、主旨と目的に依って結成されたその“祭りばやし保存会”みづからの手で「祭りばやし」が斯のように無残に歪められつつある実状を見て、その運営当事者の無責任さと杜撰さに対して、公の憤りを為すもの果して私一人のみであろうか。
結成以来一年余り、僅かな短期間に、その運営の方向が、結成当初の主旨目的を没却して、似て非なる横道に推進され「古くより伝わる大宮祭りばやし」が次第に歪められて、他市他県の人々の鑑賞の具に供されたという事実は、換言し、極言すれば吾々の父祖幾世代相守り相継がれ来た。伝来の重宝。八万市民の共有の郷土の芸能遺産が、一二の人の専恣臆断に禍されて、拭う能はざる、汚点、瑕瑾を付されたに等しく、誠にふんまんやるかたないものを感ずるのである。
概して、郷土芸能には、純粋な泥臭さ、素朴な野暮臭さが魅力となっているものが多い。NHKの“ふるさとの歌まつり”を見るがよい。特異な純粋さと素朴さが郷土色となっているもの程一般の好感を得て人気を呼んでいるようである。それは古くより守り伝えられたそれぞれの古里の風土と生活から滲み出た味が、その底に流れているからなのであろう。是に反して、なまじな都会的な洗練さや、現代的な新奇さを狙ったようなもの程、どうも歓迎されないようである。とかく衒い心から出た真似ごとや借りものには、鼻もちならない軽佻浮薄な味がつきまとうものだからである。
「古くより伝わる大宮祭りばやし」にもそのことは言える。純粋素朴なあの旋律から醸し出された絶妙卓抜な郷土芸能的な特徴は、一朝一夕にでき上ったものではあるまい。幾世代を受け継がれて今日まで命脈を保ち得たということは、なやましい偶然によって成されたものではない。同好の郷党幾多の先輩が逞しい意欲と、烈しい情熱とを是に傾けて守り伝えて呉れたからである。「大宮祭りばやし」には是等先輩の“息吹きが笛に”“脈搏が太鼓に”“血潮が鉦に”いのちと篭められて受け継がれて来たのである。
浅間秋祭りの「大宮ばやし」の懐かしい調べを揺籃の歌とも聴いて此の郷土にはぐくまれた者にとって「祭りばやし」の持つ音律からは、純粋な郷愁が、素朴な感傷がその胸底に湧玉の泉の如く美しくかぎりなく甦ってくるのである。

保存会の運営の是非を、今更論じてもはじまるまいし、老いの繰り言に似て耳はゆい仕儀でもあろう。畢竟は「祭りばやし」に対する、研究と理解の未熟さがなせる考え方と、取り扱い方の甘さに因るものとして、お互いに反省し前轍を踏まないよう、真摯、謙虚を以って臨んで頂きたいと希うより外あるまい。保存会々則第二条『!!古くより富士宮市大宮に伝えられる富士宮ばやしの保存‥‥』の主旨を遵奉し、その目的を達成して欲しいものである。

偖而。では何故に、“寄席下座囃子の三味線音曲”を「古くより伝わる大宮の祭りばやし」から否定し排斥せねばならないのかそして又何故に“日本舞踊としての高い格調を持つ西川、藤間、花柳等々の振り付けを当て嵌めることが、保存会の主旨と矛盾するのか。推論してみたい。文脈の粗雑さに因る隔靴掻痒の感をご辛抱頂いて、暫くのご判読をお願いする次第である。
まず、推論の緒として「大宮祭りばやし」の沿革起源の考証にも役立つかとも思われるので古老から伝え聞いている物語りを“経”とし、私の明治末期大正初期の思い出を“緯”として「浅間秋祭」と「祭りばやし」についての雑録を綴ってみよう。

現行の「浅間秋祭り」の、山車屋台の発祥(祭り囃しも同断)は、何百年以前からというような古い時代からのものではないらしく、恐らく、明治維新前後からとの推測が「中らずと雖も遠からず」ではあるまいか。併し、これが詮索解明を確実に成すことは、到底一個人の手に負えるような容易なものではあるまい。それは畢竟、“氏神と氏子”“祭典と祭りばやし”等の脣歯輔車の関係を抜本塞源的に究明せねばならずその為、浅間神社の書庫を展いて厖大な史料記録を渉漁して、すくなくとも、神田川を境とした、天領、社領、の行政区画の対峙して居た旧幕時代から、明治四年の廃藩置県。社寺領公収。神祇省改定等の当時に於ける神社側と氏子側との関係がどのような状態で成り立っていたか。又それに伴う祭事掌典の実際がどのような形式で行われていたか。斯うした事の調査研究こそが先ず以て保存会の第一義的な事業の手始めとすべきであろうかとも思う。
併し、是の事業の遂行には、非常な根気と熱意が強く要請されるのであるが、是なくしては迚も此の種の研究調査の完璧は期しがたいと思われる。即ち「祭りばやし保存会」生みの親である教育委員会の諸先生方や、保存会運営の任に当る諸賢方の卒先躬行を俟つ所以である。
先年、元町通りの道路改修工事の際、パブロ美術店(望月勇氏宅)前の道路中央稍南寄りの地点から、同家旧宅の物と思われる柱の“土台石”が二個しかも規矩相整った侭の状態で発掘されたが、是に依って推測すると、旧幕時代、大宮を東西に唯、一本だけ貫通して居った主要道路の幅員すら、精々三四メートル位のものであったらしい。
明治二十年頃、新道(新立町)から出火、松山町に向って延焼松山町の大富座という芝居小屋も一と舐めにして、西北風に煽られた火は、西町殆どを烏有に帰し、前記望月氏宅の東数戸をも焼払って漸く鎮まったという。是が、後世に語り継がれた明治初期の「大宮西町の大火」である。
此の火災を契機として、西町方面、特に元町の道路は拡張されたと聴く。(村松喜一郎翁=寿町、明治二十二年生れ、太田要次郎氏=松山町、木村久蔵氏=元町望月勇氏元町)諸氏の談話参照
斯うした昔噺も、郷土大宮の「浅間祭り」の変遷推移を知る上に必要な事柄の一つであろう。

因みに、社人町(宮本町)の道路の幅員が昔から他町に比して格別に広いのは、浅間春祭りの流鏑馬神事を行う馬場であったが故で、同町全域は殆ど神社神職方の邸宅地で、今の専売局の広大な敷地も旧幕時代は、駿河一之宮富士山本宮浅間社宮司、富士氏の世襲邸宅地であり、富士氏は清和源氏支流(沼田頼輔著、日本紋章学、参照)の名家で、里人からは“大宮司の殿様”と敬称され、一万石の大名に比肩する程の格式を保ったと伝えられる。恐らく、明治四年の社寺領収公までは専売局は勿論、宮本町全域も社人町の呼称が示す如く、浅間神社職員各自の所有邸宅地であったろうことは想像に難くない。
右のような幕末から維新当時に於ける郷土大宮を、立地条件等から想像すると、鄙びた農家聚落の片田舎町でしかなかったと憶測されるのである。斯うした辺鄙な古里大宮、をイメージにして考えると、現在の殷賑極まりない富士宮市の繁栄振りこそまことに隔世の感があるというべきである。

長い前置を漸く済ませて、郷土大宮の浅間秋祭りの古い(と言っても、精々五六十年前)頃の、あれこれを記憶の糸を手繰りつつ回顧してみよう。

社人町と寿町合同で「寿」を名乗った明治44年の写真

明治四十四年の浅間秋祭り。当時尋常小学五年生十一才の私は社人町(宮本町)の子供連として揃ひの祭り衣装を着せて貰い、練り物の綱を曳いた。当時社人町は戸数人口すくなく単独でお祭りを催すことに、諸般の事情が許されなかったものか、寺地(寿町)と合併して“寿”の祭り組名の下に一切が運営された。
練り物の屋台は、今泉方面からの借り物であったと記憶する。囃し方も、駿東郡浮島村根古屋から三名の囃子連を招聘、是に、村松、赤堀等の先輩が弟子格で参加編成された。屋台故当然、踊りの演し物が必要で、この踊りには、大宮には杵家、常磐家という芸妓置屋二軒のみで、総勢すぐって五六名ではどうしょうもなく土地の芸妓は断念して、町内青年の外木幸太郎氏夫人の実家藤浪氏が江尻の実力者であるのを、勿気の幸いと、その方の斡旋で、地方(じかた)立方(たちかた)の腕達者六名は、全員江尻芸妓を以って組織された。併し、祭り囃子は、笛大太鼓(大胴)小太鼓(きん胴)当り鉦(よすけ)四種は五六名の構成で独立演奏された。 参加芸妓の三味線は、飽くまで舞踊へのもので、此の点“祭り囃し”と“三味線”は終始、別のものとして隔絶、判然と其の一線を画したという厳格さであった。

当時、西町方面には旅館といえば松山町の海松楼ぐらいのものであり、又経費等の都合にも依ったのであろうか、是等、囃子連芸妓衆の全員は、私の養われた角田家(今の村下洋傘店)を宿舎としたので、此の時の、祭りの思い出は、つい昨日のごとく鮮明に甦るのである。
此の少年期のお祭り気分が萌芽となって心の底に培われ、ふかく根ざしてついに、お祭り好きな、遊芸三昧的な、私の生涯の性格を卜して了ったようである。
尚。此の当時の大宮町全体の“祭り組”を数えると、西町全域が『湧玉』を親名として先づ北より、立組(立宿、富士見町)松山(松山町・田宿・羽衣町合同か?)寿(寺地・社人町)高嶺(西新宿・下宿)川東へ来て、磐穂(神田町・仲宿)咲花(連雀・青柳・新宿)と記憶する。神立(新立町)は独立した“祭り組 ”であったか、それとも、立組との合同であったのか、此の点記憶曖昧である。
(ご精通の御仁を得てご教示を乞い度い)
山車屋台の、見返えり柱に、おかめ、塩吹き、等の面を被った子供連を兵古帯で結い立たせて、日の丸の軍扇、采配などを手にかざさせ「にくずし」「屋台」等の囃しの旋律に合せて、当て振りを踊らせたのも祭り見物の人々の目を楽しませたほゝゑましい大宮祭り当時の風物詩のひと駒であった。

次の記憶は、大正四年の大宮全町、否、日本全国を挙げての大祭りのそれである。前年の大正三年八月第一次世界大戦勃発・連合国側に加担した我国は対独宣線布告・九月山東半島に我軍上陸・十月南洋諸島占領・十一月独軍の東洋根拠地膠州湾及青島占領・明けて大正四年一月対華二十一ケ条約要求、五月日華新条約締結調印・十一月英露仏共同講和宣言に我国加盟=剰さえ此の年秋、京都に於て『大正天皇即位式御大典』と全国民は、国威の宣揚を謳歌し、皇謨の無窮を慶祝し、此の曠古の祭典に遭い得た欣びに、全国津々浦々に祭り気分を高潮させた。
我郷土大宮も、是に和して全町挙げての豪華絢爛たる、浅間秋祭りの絵巻を各町に繰り展げることゝなった。
宮本町は此の祭りでは、福住町と提携して「御幸(みゆき)」という祭り組名が誕生し、山車も新調、参加全員揃いの祭り衣装長襦袢も煌びやかに、木遣り音頭勇ましく、練り物を繰り出したのであった。 高等小学校卒業の年で私は新米青年として仲間入り「御幸組」が初めて持った自前の“囃し組”の一員として、先輩村松庄・繁等の驥尾に附して山車に乗せて貰ったのが嬉しい限りであった。

是れ程の記録的な大祭りであったにも拘からず、山車、屋台を問わず、どこの町内の“祭り囃し組”にも一人の芸妓はおろか、一挺の三味線も這入らなかったのが、此の当時の大宮祭りの基本的な定型であり、常識的な形式であった。

古いと言っても、精々五六十年前。私の覚えている「大宮祭りばやし」ですら三味線は用いられなかったのであるから、況んやそれ以前は推して知るべしである。明治初期の郷土大宮町は、一人の芸妓をも必要とせぬ程の醇朴無垢な田舎町であったことに想到すればよく判ること柄である。
大正四年の大祭り当時、山車、屋台が通れる程の幅員を有した道路は、立宿、富士見町、新立町、寿町、松山町、福住町、宮本町、西新町、神田町、仲宿、連雀、青柳、新宿、などが主なものであった。
現在の貴船小学校及び貴船町通り、西町駅及び駅前と其の附近宝来町通り、本町通り及び浅間区、錦町通り、これ等の地は殆ど田圃で、路らしいものとてなく、雨降りには足駄で歩くのも難渋な、畦同様のぬかるみ道であった。桜木町、神田川沿いの観光道路等、影にも形にも無かった。
大正の初め、身延線が開通、大宮駅がポツンと田圃中に出来てからあの辺り疎らに家がボツボツと建ち、なんとも忝い程の閑寂な田舎町の風情であった。

大宮駅前通りといえば、大正四年の大祭りから四、五年後の「大正の大宮大火」を思い起す。現在の警察署前、吉沢毛糸店の有る附近から出火、駅前通り殆どを灰燼に帰した。宮本町の青年消化隊(私設)の一員として私も消化作業に携わった。手押しポンプを据えて消化作業に懸るや、忽ち、迅い火足が迫ってくるので皆で手押しポンプを差し担いに、久保田武力屋裏、遠藤木材店裏置場の、細い泥濘路を再参逃げ惑いつゝ火の手を防ぐのに懸命につとめた。
此の大火災に懲りて大宮町公設消防団に初めて“文明の利器”?蒸気ポンプなるものが購入されて、当局は大宮町の防火対策に万全を期し、町民も此のポンプの威力に全幅の信頼を寄せた。
此の頃から郷土大宮の戸数人口は加速度に激増し、いよいよ近代都市としての面目を整えてくるのである。

閑話休題、記憶を辿りながら“浅間の秋祭り”“大宮ばやし”のあれこれを記した。是に依り「古くより伝はる大宮祭り囃し」に寄席の下座囃し風の三味線を用いることの矛盾や、本格的な日本舞踊の振り付けを当て嵌めることの不可である理由もご納得いただけたことゝ思う。
昭和の初期から、大宮の花柳界は県下では異例とする程に驚異的な躍進発展を短年月の間に遂げた。此の頃、偶々、是等の芸妓置屋を有する町の“祭り囃し組 ”の一二が、芸妓の祭り参加を許して、添え物的に寄席の下座囃し風な音曲の派手な賑かさを伴奏させたのが原因して、今日遂にその事情を知らぬ者を誤まらせて「大宮ばやし」の純粋な曲目をさえ誤解させてしまったのである。
又、民謡、流行歌、俗曲等に合せて踊る、群舞形式(地踊り)も大正末期までには無かったものである。殊に昭和初期の一と頃長唄の「元禄花見踊」「五郎」清元の「神田祭り」等の本格的日本舞踊の一節を抜粋して踊った群舞形式(地踊り)が流行したことがあるが、あの形式も明治末期から大正年間を通じての私の “大宮祭り”の記憶には無いのである。『藤枝の、あくなみ神社の祭り』は昔から「長唄祭り」とも称されて盛大なもので「地踊り」はどの町内も全部、長唄の一節を抜萃して踊り、各町内の屋台には専門の長唄連中囃子連中を、東京を主とし或は浜松方面から招聘し、三年目か四年目に必ず行うという豪華祭りが古くから土地の誇りとして伝えられている(私も、東京から師匠に連れられ先代芳村伊十郎師御出身の町内藤枝、左車町の祭り屋台に乗せて頂いた経験があり)此の「藤枝祭りの地踊り」を昭和の初期、大宮祭りに真似させて演じたのが「大宮祭りの地踊り」のはじまりで是が先駆をなして近年流行歌、民謡、一時的な流行を遂い、なんでもかんでも踊りさえすればよい、とする大宮祭りの乱脈さが激しく募って、浅間秋祭りに純萃な郷土芸能的な創意工風が生ずべき気運の兆しをさえ阻んでいる。

先般「祭り囃し」の笛の名手、井出文作氏を宮本町のお宅に訪い「祭り囃し」に就いての四方山話に、時の移るのを忘れた。井出氏は幼少の頃富士市国久に在って、笛は小学生二、三年の頃より、別に誰に教えられたというでもなく独り嗜んだとのこと、無聊の徒然に鎮守様の森や神苑の篁などに身をひそめて、一管の笛に童心を託しつゝ、それを吹き鳴らすのがこよなき楽しみであったという。とある夕べ、井出少年の奏づる笛の調べに誘われ、近づいた青年からすゝめられて、根古屋の芦川という翁の許に教えを乞うようになって益々、笛の音に憑かれて、これに打ち込み、のち、沼津、三島の「祭り囃し」に招きを受けたこと屡々であった等の話から「祭り囃し」に関しての卓説を伺い得てまことに裨益された。結局、郷土芸能の保存は、是を運営する者の純粋さが肝要で、徒らに大向うの喝采を狙うことに汲々とするのみでは、所期の目的達成は心もとない等を話し合った。此の席で「祭り囃し」に笛の習い手が皆無で、将来の保存対策が憂慮されるということが話題となり、それには教育委員会の協力を得て、小学校の鼓笛隊に横笛班を編成加入せしめ幼少の頃より、笛、というものに興味と愛情を抱かせることが出来れば、情操教育の涵養と兼ねて、一石二鳥の効を成すのではないかとの私の提唱に御共鳴を得たことも有為であった。が、此の数日後の、NHK「ふるさとの歌まつり」浜松からの放送で計らづも浜松地方のある地区の「祭り囃し」で、小学生の鼓笛隊に横笛班があって、参加出演したのをみて、偶然ながら吾が意を得たという想いがして感慨ひとしおであった。

ついでではあるが「古くより伝わる大宮祭り囃し」の発祥起源を、京都の祇園祭りの「祇園囃子」の流れを汲むものである。とする解釈が巷間に於てなされて居るので、是は、「大宮祭り囃し」にとって甚だ重要な事柄故、敢て此の稿で私見を述べ度い。
我国芸能研究の権威、河竹繁俊博士の著書中の『祭囃子』の項を繙くと。
“京都祇園囃子”は笛、太鼓、鉦で囃しその曲目は各鉾によって小異がある。先頭の長刀鉾には地囃子、上げ、神楽、唐子、兎、流し囃、朝日、青葉、鼓、霞、筑紫、千鳥、柳、獅子、扇、巴、九段、緑、柏、踊り囃、御祓、四季、浪花、上げ、古、太郎の二十六曲があり、月鉾には(渡りの部として)三十数曲を伝えている----。
とあり、是に対し関東囃子については、“関東囃子”は神田囃子ともいゝ、大太鼓、小太鼓、笛、鉦で囃しその曲目には、正伝(聖天とも)にんば、玉打ち、屋台、鎌倉、神田丸、国堅め、車切り、等の曲あり、是らに獅子、天狐、塩吹き、おかめ、大笑い等の神楽舞もつくが囃子のみの所が多い---。とある。
此の考証記述に依ると、関東囃子には「大太鼓」「小太鼓」と太鼓二種を揚げているが、祇園囃子の方では「太鼓」とのみであり、又、曲目には「正伝」「にんば」「玉打ち」「屋台」「車切り」等は関東囃子にはあるが、祇園囃子には無い。彼我を比較検討すれば、「大宮囃し」は“祇園”“関東”いづれの範疇に属するものなのか、二者択一は容易なわざである。
「大宮囃子」を“祇園囃子”の流れを汲むものである、とする巷間一部の解釈が、万一、荒唐無稽な独断による発想からの言説に基いてのものならば、郷土芸能の「大宮囃し」に純粋な愛情と関心を寄せる人々を誤るの甚だしきものであると思う。
尚、是に就いて御造詣ふかい篤学の御仁を得て御高教を得度いとお願いする。

頃日『三島囃し』の放送をテレビで鑑賞することを得た。「大宮囃し」と同じ曲目の「にくづし」「屋台」等矢張り発祥は『関東囃子』の範疇からのものらしく、流石にその旋律の勇壮活達さは「大宮囃し」と同工異曲で、まさに、同じ親からの血筋を亨けて生れたのに応しく、軌を一つにした美事さであった。但し「大宮囃し」と異なる所は、曲と曲との移り変りに、一息入れる“小休止”を置く点である。
「大宮囃し」に於ける“聖天、から、にくづし”“にくづし、から屋台”へと移る『切り替え』で繋ぐあの、旋律音調の美事さは、蓋し、郷土芸能の佳品として天下に誇るべく、全国いづれの『祭り囃子』に伍しても聊かも遜色ないものであろうと、寡聞ながら、密かに自負しているのである。

大宮囃しの「切り替え」の曲調の素晴らしさこそ、無形文化財としての価値を決定付けるものと確信するのであるが、併も今その“切り替えの真髄”に触れて驚嘆に価するのは、此の絶妙卓抜な「切り替え」で連繋される“聖天”“にくづし”“屋台”を此の侭の順序で打奏する時、それぞれの曲が、いみじくも、我国古典音楽に於ける『序』『破』『急』の三節一曲の原則を立派に踏んまえて成り立っているということである。 「序」「破」「急」とは、雅楽、能楽等我国の古典音楽の“曲順”“作体”などすべての原則の呼称で、此の原則は軈て、琵琶、浄瑠璃等の語り物にまで布衍されて、その内容の“順序”声調の“緩急”に適応され今尚、此の原則は尊重され継承されている。

『大宮囃し』の「聖天」「にくづし」「屋台」此の序列によって守られる古典音楽の原則を活用する場合、他の祭り囃しに比類なき音楽的精華を表現なし得るということは将に、神の奇瑞ではないかとさえ思われる。“曲譜”の内容に一指も改竄の手を触れずに、順序を整えるだけの打法演技で「大宮祭り囃し」が一層の格調と独特の芸風を生み出せるのであるから、名実ともに富士宮市唯一の無形文化財としての完壁さを実現せしむることも亦容易な技である。

試みに、序 破 急 の三節度を合して一曲と成すを普通とするとの雅楽、能楽の原則を「大宮祭りばやし」に適応せしめて、左に表示してみよう。

序-序引ともいう。一曲初最の部分で無拍子、緩慢 単調-聖天

破-破入ともいう。一曲中間の部分で拍子稍細かく変化す-にくずし

急-急声ともいう。一曲最終の部分で調子急切に激変化す-屋台。

右の編曲構成に依って、三節度一曲の古典音楽の法則に適合符節せしめることが可能となる。
この創意工風は、曾って「根古屋囃子」従来の曲節に「大宮囃し」独特の『切り替』を発案工風して、現在の絶妙卓抜な旋律をもたらした、郷土先人の業績に瑕瑾を付するものではなく、むしろ、この先人の遺績をして、吾が郷土の誇りたらしめんとする為の意義有る画竜点睛の企てにはほかならない。

明治百年と、市制二十五周年、を記念するという意味で、今年は、大正四年以来の記録的な、祭り年、となるかも知れない。いろいろの行事を、各団体や、グループで企画しているようだ。浅間祭りも、全市挙げてということにもなりかねない。各区、各方面それぞれ、鳩首して、下相談を煮詰めなければならぬ時も、おいおい迫って来る。
洵に、鳥滸がましい沙汰かも知れぬが、次の愚見、御参考にして頂けるならば、望外のよろこびである。

1)  どんな大祭りの場合でも、手古舞、金棒引、等廃止して欲しい。理由-莫大な個人負担を要するので、一部の恵まれた人のみが楽しめるだけでそれの出来ない人の立場を考えて頂き度い。尚此の手古舞、金棒引、は江戸の神田祭り、三社祭り等に芸者衆が主に参加したもので、由来、良家の子女が行った例は稀れである。大宮祭りでは明治の中頃、東京、横浜の祭りで手古舞を見て、是を真似させたのが起源であろう。

2) 囃子に三味線を用いることは避けて欲しい。理由-「大宮祭り囃子」の本来のものでないから。

3)  座敷払いはなるべく地味にして欲しい。理由-町内の祭典費用が嵩み、各戸の負担が苛重されるから(三日間のお祭りそのものを楽しみ、最終の夜、神酒所(会所)に集り、一同神酒を頂き、手〆めをして解散出来ればこれが一番理想的な祭り行事の型で、又一般的なものゝようである。)

4)  祭り前、連夜に亘っての舞踊練習等も廃止して欲しい。理由-高校その他進学者にとって、年間一番大切な期間に、一週間も十日も連夜、受験勉強をさまたげられるのも辛いこと。  こんな犠牲を払って習う踊りが、他国の民謡踊りや一時の流 行歌踊りでは意味ない。一晩か二晩の練習で出来る。しかも 浅間祭りを表徴した、郷土色豊かなものゝ創意工風がのぞまれる。

5) 他町内への、山車、屋台等所謂、練り物の曳き入れは避け度い。理由-戦前と異り隣接区域も広汎化して来たし、その上交通事情が日を遂うて悪くなるから。

以上の提案は、一見悉く禁止事項の羅列のようではあるが、私の真意は、浅間の秋祭りは、精神的には氏子が主体となって行う素朴な豊年祭りとしての古い型を守り伝える神えの感謝報恩の民間信仰を基調とし、形式的には富士宮市独特の醇朴な併も一種の風格をもつ型を創り出して、郷土芸能としての彩りと匂いを添え度いとのぞむ。出来れば、全市民の御理解と御協力の下に、皆で阿波踊り的な、観光資源的な「大宮祭り」を生み出し、育て得ることができたならば、どんなに素晴しいことかと。それが「お囃し童子」から「お囃し老人」になってまで、未だ捨て切れぬたった一つの私の夢なのである………………。

(昭和四二・五・五)
富士宮市祭ばやし保存会 評議員
村 上 君 松

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