富士宮囃子2

参考文献

袖日記 大宮浅間秋祭り夜噺 囃子方の弁 富士宮囃子1 富士宮囃子2
 加藤長三郎氏講演 笛今昔 秋祭り 英文解説

伝説・こぼれ話

富士宮の特殊事情 物騒な話 湧玉囃子 血染めの笛 鉾立石
神田川原にのろしを上げて 露店が無かった祭り


富士宮囃子

富士宮囃子について御紹介致します。
富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社は、戦前、官幣大社の称号を以って駿河の国一の宮として富士山と共に日本人の崇敬の的でありました。
當市は、この浅間大社の門前町として又、駿河と甲斐の国を結ぶ要衝として発展し、今日を迎えているものであります。
この浅間大社は戦国時代には、武田、徳川等の武将、武人の守護神として將又、農業の神様として氏子の信仰を得て参りましたが、祭典は年二回あり、春は流鏑馬祭として五月四日から六日までの三日間行われ、鎌倉八幡宮と共に流鏑馬祭としては全国的に有名であります。
秋は五穀豊穰を感謝する氏子や市民参加の祭として十一月に行われております。
ここに御紹介する富士宮囃子は秋の大祭の十一月三日から五日まで三日間、町方氏子が山車、屋台を引き廻す時の祭り囃子として創られたもので、現在市の無形文化財に指定されております。
昭和十七年、市制施行前の大宮町の町方が、浅間大社の境内に源を発する神田川を界に東を「いわほ」と総称し、その地域内に瑞穂、咲花、常磐、神田、大和、浅間、木の花の七町内、西は「湧玉」と総称し、高嶺、みゆき、寿、松山、羽衣、神立、立の各町内、東西十四町内が山車又は屋台を引き廻して三日間全町を一巡する「ならわし」で、山車が出合いの時とかすれ違う際、山車囃子やたい(別名喧嘩ばやし)の勇壮な囃子の打ち合いによって優劣を競い、調子を乱した方が道を譲ると言う厳しい掟があった様で、打ち合いに勝つ為に囃子方や若衆連は、他の地区に負けじと研鑽と努力を重ねてきたものであります。
移り行く時代の変遷の中で、明治、大正、昭和と栄えたこの祭りも、社会経済の起伏の波を受け、又、道路、交通事情等多くの障害もあって、祭りを自重しなければならない時代もあり、自分の所属する町内だけの引き廻しに終ると言う、質素な祭りを余儀なくされた年もありましたが、明治百年を記念して行われた大祭は各町内の申し合わせにより神殿に関係の区が参集し奉納囃子を行う等、祭典の気運は熱し、再び盛況の時代を迎えつゝあります。
富士宮囃子発祥の由来はさだかでないのは大変残念でありますが、「やたい」、にくずし、昇殿、籠丸等の曲目はその名が江戸神楽にもあります通り、江戸から伝ったものと思われます。
私達の先人先輩が、長い歳月優れた郷土芸能の伝統を守りながら、土地の気風を織り込んだ独特のリズム構成を行い、現在の様な祭り囃子として伝承されて来たものと想像するのであります。
富士宮囃子に類似したお囃子は隣りの富士市、更には三島市、沼津市の旧愛鷹山の麓にある根古屋にも今なお伝承されております。
富士宮市に伝わるこの囃子も地域によっては 同じ曲目でも間の長短、音の強弱、撥さばき等時代の移り変りによって多少の相違はあります。
近年テレビの普及等により演出にも工夫をこらし各地の太鼓も見せるものに変化しつゝありますが、この富士宮囃子は伝統を正しく理解し音を聞いて戴くことができる囃子として後世に遺すよう努力する必要を痛感するものです。
次に富士宮囃子の編成について説明を致します。
一組の編成は基本は五人です。
その内容は
笛    一
長胴太鼓 一
締太鼓  二
鉦    一
の五人ですが、お囃子を賑かにするため、笛と鉦の数を増やすことは自由にできます。そしてこのリーダーは笛が役割を果すことになりますが笛の役割は大変重く、特にやたい囃子における切り換え(調子の変わるところ)は笛の合図によって行われるのであります。
又、締太鼓の二人の囃方はまったく同じ撥さばきをしなくてはならないわけで、二人の撥は常に正確さと一定のリズムが要求されるので、これには基本が最も大切です。長胴太鼓は締太鼓の調子に合せて一定の撥を入れ、全体の調子と囃子が単調にならないよう変化を与える機能を果しているのであります。

それでは演奏に移ります。
最初に 道ばやし
にくずし
やたい(喧嘩囃子)
昇殿

以上富士宮市に古くから伝わる祭囃子の中でも代表される曲目を選び御紹介致しました。

昭和五十七年十月

湧玉会  遠藤照夫

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