概要

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概要 由来 演目 楽譜


資料集(年表記述昔の写真

秋まつり概要  富士宮市は富士山本宮浅間大社の門前町として古くから富士登山の起点として栄え、明治から昭和初期にかけての養蚕、蚕糸産業の隆盛で大きく発展しました。
浅間大社は富士山を神体山と仰ぎコノハナノサクヤヒメノミコトを御祭神に奉る全国千三百社の浅間神社の総本宮で、その歴史は古く現在地に遷座されてから平成十八年で実に千二百年を数えます。
富士宮秋まつりはこの浅間大社の秋の例大祭に氏子町内が祭り囃子を賑やかに囃し山車や屋台を引き回し、収穫と一年の無事を感謝するもので十一月の三日から五日まで行われ、勇壮な競り合いを売り物に二十一の町内が実施しています。
初日の三日には豊年と一年の無事の感謝とこれから行われる祭りの安全を祈って宮参りが行われます。山車は町内に残し、祭りの全参加者が太鼓を担ぎ道囃子を囃しながら隊列を組んで神社に詣でます。浅間大社拝殿前に整列しますが二十一の町内は同
時に入りきれぬために前後二組に分けて行い、奉納囃子が一斉に秋空に鳴り響きます。
中日の四日には浅間大社周辺に山車・屋台を集結し共同催事が行われます。勢揃いの後、式典を行い一斉に囃子を奏した後に踊りを踊ります。その後山車を移動させて目抜き通り各所において勇壮な競り合いや踊りなどを繰り広げます。
歴史
 「祭」の字が肉( 供物) を神前に捧げ持つ様を表すとおりに祭りの根本は祈りです。つまり初めに神事として行われる神社の祭りがあり、付随して氏子町内が囃子を奏しながら山車や屋台を引き回すつけ祭りが始まったものです。
秋の収穫に感謝する神事としての秋祭りは浅間大社が祀られた当時より行われていましたので約千二百年の歴史があります。一方、氏子町内の山車や屋台を引き回し囃子を奏でるつけ祭りの歴史は記録や資料に乏しく定かではありませんが、現存する記
録からは江戸時代末期まで遡ることが出来ます。当時の造り酒屋当主の日記「袖日記」には「家臺」や「ダシ」という記述が見られ、万延元年(西暦千八百六十年)にはすでに行われていたことが推察されます。
江戸時代、浅間神社の大祭礼は四月と十一月の初申の日と九月十五日でした。明治五年十二月三日をもって明治六年一月一日にするという太陰暦から太陽暦への改暦は全国の祭礼実施に大きな混乱を生じました。一月近くのずれはあまりにも大きく、浅間神社は県庁に対し伺いを立てました。その結果、その年の新暦十一月四日が庚申であったことからその日を大祭と定めることが允許され今日に至ります。
明治時代中頃はまだ実施組織が少なく神田川以西に「湧玉」、以東に「磐穂」といった祭り組織があったにすぎないといわれています。その名残として川西を例にとれば分離独立する際に「湧玉」の囃子を受け継ぐ、あるいは分かれであるといった意味合いから町名の上に「湧玉」という親名をつけて名乗っています。
明治末期に国が青年の組織化を奨励したことから大宮町でも後にお祭り青年と呼ばれる大宮青年団が組織されました。分団という地域割りがなされ、それが今日の祭り組の原型になりました。この分団ごとの対抗意識から後に続々と新しい祭り組が誕生し蚕糸産業の隆盛による町の拡大の勢いを得て昭和初期には祭りの爛熟期を迎えました。
 囃子の由来については諸説あるが裏付ける材料に乏しいものが多く、袖日記と明治以降の記録に頼らざるを得ない。その「袖日記」によれば当時大宮においてもダシや屋臺が引き回されていたととれる記述があり、祭り提灯の新調のために若い者が無心に来たなどの記述も見られる。しかしながらどのような演目が奏されたかについては記述にも残っておらず不明である。
青年組織と
祭り実施
 富士宮(旧大宮)の秋祭りと囃子にとって大きな動きは明治末期に見られる。国策として青年を組織することが奨励され、大宮青年団(お祭り青年)が組織された。各分団毎に祭り実施の気運が高まると、ある分団(町内)では山車を新調し、またある町内では郡内の他町から屋台を借りるなどして盛んに祭りを実施した。こうした動きは明治44年に顕著に見られる。
 当時は祭り実施に当番制をとっており、当番に備えて衣裳新調のために積み立てなどをしていました。この当番制は昭和三十年代初め頃までは続いていたようです。
昭和初期、静岡県下で一番の隆盛を誇ったのが大宮の花柳界でした。芸妓置屋を持つ町内は山車には乗せないものの屋台に芸者衆を乗せ三味線や太鼓の入った屋台囃子を囃させ引き回すなど祭りにもこの時期に新たな囃子が競って取り入れられました。
昭和七年に大宮大火があり、神田川以東の多くの木造家屋は焼け落ち、いくつかの山車も焼失しましたが、二年後の昭和九年
五月には大火からの復興祭を盛大に行っており、当時の町の勢いが感じられます。
紀元二千六百年を祝った後、戦時中は祭りは休止となりました。戦時中の昭和十七年に富士宮市が誕生しています。戦後祭りは再開されましたが市制施行の影響か実施組織に多少の変動が見られます。
昭和三十年代は行政区の分離独立が相次ぎ、単独で祭りを実施するための組織力が低下していました。加えて暮らしに余裕が無く祭典の寄付や祝儀に対する反発がありました。暴力追放運動の高まりなど祭に対する風当たりも強くなり、趣味の多様化と価値観の変化などによる青年層の祭り離れが重なって長期にわたり低迷することとなりました。
この時期、山車の保管場所に困り解体焼却、あるいは売却する町内が相次ぎ、引き回しも数区が行う程度でたいへん寂しい状態が五十年代初期まで続きました。
この祭の低迷に歯止めをかけようと昭和四十年十一月四日には文化連盟が音頭をとり市立公民館で「富士宮ばやし保存発表会」が行われました。四十一年二月に「富士宮ばやし保存会」が市長を会長に盛大に発会し様々な活動を繰り広げ、四十一年八月には富士宮囃子が富士宮市の無形文化財に指定されました。鳴り物入りで発会した富士宮ばやし保存会でしたが、活動は数年で尻すぼみとなり組織を改めることとなりました。保存会で技術研究委員をされていた方々が「湧玉会」という保存会を作り、復興を模索する祭組の囃子の技術指導にあたられました。この長い低迷期の囃子の中断は囃子方の散逸を招きました。祭りを再開しようにも囃子が無くては山車が引けません。こういった町内の囃子指導に気軽に出向いて指導された遠藤氏、有賀氏など「湧玉会」の方々のご尽力の甲斐あって昭和五十年代に入って祭りは徐々に再開され再び盛り上がってきました。
一時期、暴力や飲酒、非行の温床と非難され、目の敵にされた祭りでしたが、地域社会における世代間交流、伝統文化の継承など祭りの見直し機運が全国的に高まったことも復興の一つのきっかけでした。加えてオイルショックによる青年層のUターンが大きな原動力となったことは見逃せません。
その青年層の盛り上がりは昭和六十一年秋祭りの後に秋祭り青年協議会を発会させました。地元の祭りをもっと広く世間に知らせたいという願いで競り合いを見せ場に共同の企画を模索しています。
山車の新造も相次ぎ、こういった祭りの盛り上がりに刺激されてか今までの祭り実施区域外からも新たに祭りを実施する区が出てきました。現在二十一の区が祭りを行っています。
囃子の流入
 大正、昭和の御大典には山車を新調する町内も多く昭和初期の蚕糸産業の発展で祭りもますます盛況を呈した。当時の花柳界は県下随一を誇り、芸妓の祭り参加などにより三味線の入る屋台囃子や道囃子などの新たな囃子が加わった。
戦中の休止
 第二次大戦中は祭りは休止状態となるが、昭和17年の市制施行により、行政区画定などで祭り組の編成に多少の変化が見られる。
※例 ー 戦前高嶺と御幸(社人町と福住町合同)は別の祭り組であった物が戦後(市制施行後)は宮本となっている。
再開
戦後まもなく祭りは実施されている。
低迷と復興
 昭和30年代後半から昭和50年代にかけて祭りは低迷した。引き回しを行うのは2-3区ときわめて少なく、この祭りの低迷に歯止めを掛けようと富士宮ばやし保存会が発足した。昭和40年8月13日には富士宮ばやしが富士宮市無形文化財に指定されている。市長を会長に鳴り物入りで発足した保存会であったが、活動は1-2年で停滞したため、組織を改めて技術指導者達で囃子の復興保存にあたるようになる。
祭りの長期休止などにより囃子経験者が散逸したために復興の気運はあっても囃子ができないという町内があった。こういった町内(祭り組)の囃子と祭りの再興に尽力されたのが富士宮ばやし保存会「湧玉会」の皆さんだった。
50年代に入ると各地域で徐々に祭り復興がなされ、新たに祭りを実施する町内も出てきて、61年の祭りの後には秋祭り青年協議会が発足し、祭典実施区は20を数えることとなった。
富士宮囃子
県無形民俗文化財指定
新保存会発足

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