富士宮囃子の由来

由来

概要 由来 演目 楽譜


諸説 考察 親名 参考

諸説
 狩り囃子起源説
昭和41年3月2日付けの岳南朝日新聞に花井光介氏が歴史小話201「富士宮はやし諸説」として「狩りばやしの説」を書いている。
建久4年5月源頼朝が数千人という規模の富士の巻狩を行い、その際に勢子が奏した鳴り物が地元に残り伝わった物という説。
 祇園囃子起源説
昭和41年3月4日付けの岳南朝日新聞に花井光介氏が歴史小話202「富士宮はやし諸説」として「祇園ばやしの説」を書いている。
駿府の今川氏は都の祇園祭を移し真似たが、武田氏による焼き討ちや徳川氏の居城化などで消滅した。それが神官などの手で富士宮に伝えられたという説。
 万野士族伝承説
湧玉会で長年笛を吹いていらっしゃった有賀氏が「富士宮ばやしの笛今昔」の冒頭で次のように述べている。「富士宮ばやしは、さほど古いおはやしではなく、明治の始め萬野に徳川の御家人が祭り屋台を引廻したのが始めと古老に聞きました。明治時代大宮町立宿におはやしが始まったと聞いております。 」

明治維新で職を失い万野原新田に移り住んだ徳川の旧幕臣を「万野士族」などと呼ぶが、この「万野士族」によってもたらされたという説。

 根古屋伝来説
昭和42年5月5日村上喜已氏が「大宮浅間秋祭り大宮祭ばやし夜噺」という冊子を発行している。この中で明治末期の祭り拡大期に社人町では寺地と合同で「寿」という祭り組を組織し、沼津の根古屋から囃子方を招聘して習い師匠と弟子混成で囃子を行ったとある。
平成元年5月30日に加藤長三郎氏は秋祭り青年協議会の会合で講演し、祭りに関して語ったが、この中で「始めは先輩たちが根古屋に囃子を習いに行った」と述べている。
 比奈説
昭和57年3月27日に発行された大和区誌に次のように記されている。
「大正11年大和としては最初の祭りが行われた。屋台はなく伊藤利治氏の尊父が小泉2号より借りて来てくれ、太鼓は富士市比奈の人達より、小池寛一氏、伊藤利治氏などが習った。」
考察
前二説は裏付ける資料に乏しく、夢のあるお話といったところか。諸説として他に平家の落人が伝えたなどの説も述べている。

袖日記に記述のある万延元年は浅間大社のご縁年ということもあり、いつにもまして盛大な余興などが行われたと推測されるが、はたして継続的な山車や屋台の引き回しがその時代に行われていたかまでは不明である。

明治初期に入植した万野士族は、厳しさに耐えかね数年の内にほとんどが万野原新田を離れたと言われている。しかし近隣の商業地に移り住み有賀氏の記述にあるように、屋台を引き回して囃子を奏し、これを伝えたという事も充分にあり得る事だ。たしかに明治中期にはいくつかの地域で祭りが行われていたらしく、写真もいくつか残されている。

爆発的な祭り実施の拡大は明治末期にお祭り青年が組織された事が引き金になったものらしく、明治44年には山車新造や中古山車購入、他地区から屋台を借用しての祭り実施などが行われた。ある町内では根古屋から囃子方を招聘して習い、ある町内では根方街道沿いの町まで囃子を習いに行ったという話が伝わっている。具体的な伝来経路が示されているのはこの頃が初めて。

大正から昭和初期にかけて蚕糸産業の発展から町は拡大し、新たな町内が次々に独立している。芸妓置屋も県下最多を誇り、芸妓の祭り参加などにより新たに三味線を入れた曲が加わったのもこの頃。

町内によっては、比奈から習ったなど独自に他地域と接触を持ち新たに祭りや囃子を始めたというところもあった。

乏しい資料から考察すると現状の「富士宮囃子」の演目は入ってきた年代も元の囃子を伝えた地域もさまざまで、また大宮町の発展期に競って新たな囃子を取り入れて現在の形になったものらしい。
囃子の奏法は大まかに川西型、川東型の2種類に大別できるが、祭りの衰退、復興などで伝承が途切れた地域もあったり、他町の囃子の良いところを取り入れるなど囃子の奏法などに若干の変化も見られる。
祭りも囃子も生き物のようにその時代の環境に合わせ少しずつ変わって行く物らしい。

親名(湧玉と磐穂)
 今も多くの町内が町名の上に親名を冠して名乗っているが、この親名はその祭りが引き継いできた囃子のルーツを表しているものらしい。 元々神田川を境に東は韮山代官直轄の天領であり、西は浅間神社の社領であった。明治23年発行の地図にも大宮町、大宮西町と分けて記載されているように川を境に気風の違う二つの町であった。明治期の実施組織は東に「磐穂」西に「湧玉」しかなく、それぞれが行う祭りもその囃子の奏法も差違があった。

産業振興などにより町勢が充実し、祭り実施態勢が整うと独立する際に「湧玉」の囃子を継承していると言った意味合いでそれぞれの町名に親名を冠したと言われている。

※右写真は大正14年に撮影されたものであるが、襟に「湧玉はやし御幸」と書かれているのは湧玉の囃子を伝えている「御幸」という祭り組であることを示している。

御幸=社人町(現宮本内)と福住町(現松山内)合同時代の祭り組名

= 参考 =
富士宮ばやしは昭和41年8月13日に富士宮市の無形文化財に指定されているが、その台帳に次の記述が見える。

 明治の末沼津の在の根古屋という所から大宮町青年の衆の手で関東ばやしが持ちこまれ ”いわほ”、”わくたま”という二つのはやし組が誕生し、数年のうちに「大宮祭りばやし」が作られた。
現在の富士宮ばやしの形を取るようになったのは、大正時代かららしい。

富士宮市無形文化財台帳より

この写真は明治29年官幣大社昇格記念の祭り衣裳の写真であるが、提灯に川西で唯一の祭り組織であったと言われる「湧玉」の文字が見られる。

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