参考文献
袖日記 大宮浅間秋祭り夜噺 囃子方の弁 富士宮囃子1 富士宮囃子2
加藤長三郎氏講演 笛今昔 秋祭り 英文解説
伝説・こぼれ話
富士宮の特殊事情 物騒な話 湧玉囃子 血染めの笛 鉾立石
神田川原にのろしを上げて 露店が無かった祭り
富士宮ばやしの笛今昔
富士宮ばやしは、さほど古いおはやしではなく、明治の始め萬野に徳川の御家人が祭り屋台を引廻したのが始めと古老に聞きました。明治時代大宮町立宿におはやしが始まったと聞いております。
さて富士宮ばやしの笛のルーツについて。昔、福知区は湧玉立組と名乗り、祭に出ていました。明治か大正の時代、福知区ではおはやしの好きな青年が集り、沼津市根方まで行き笛の名人と言われた師につき、富士宮ばやしの元となる曲を習って来たと聞いて居ます。その人は長谷川泰作さんで、夕方立宿を自転車で出かけては指導を受け、やがて秘伝の玉を教えられました。そしてこの笛は地元の青年で、福知神社内で吹いた笛の音を、西町の布屋さんの前で聞き取れる者にだけ教えたとの話を聞きました。
富士宮ばやし代表曲、にくづしは行進曲です。伝わる所によると東京深川ばやしの押上の笛の曲と聞いて居ります。にくづし笛の曲から説明しますと、 1前歌の曲 2出の曲 3高音の曲 4下げの曲 5流し笛地の曲 6留めの曲(終わりに吹く曲)で組曲になって居ります。高音の曲から流し笛地の曲までを繰り返し吹きます。金胴のバチの切れ目に合わせて留め、また流して吹くのです。
有賀正幸が吉原の祭りに笛吹きでたのまれた時、根方地方の笛吹きの勝亦老人と一緒の区の山車で吹き、富士宮のにくづしの笛にはなかった下げの曲の教えを受けて、それより下げの曲が加わったと聞いて居ります。
私は湧玉立の笛の曲を父に教わり、同時に福知区でも二名が教わりました。その後私は立宿出身の望月さんに別のにくづしの笛の曲の教えを受けました。望月さんは、常磐区の笛吹き渡辺さんに指導を受けたと聞きました。私は二人の笛の師に教えを受け二人の曲を組合せ私も流し笛を作曲組み合わせ出来た曲が湧玉会有賀流にくづし笛の曲です。
競り合いばやし、又はけんかばやしと呼ばれるやたいの笛の曲について話します。やたいばやしの笛の曲は、にくづしの笛の曲を元にリズムを早く吹きます。各町内笛のリードではやすのです。
有賀正幸は大胴タタキの名手でも有り、競り合いとなると別の祭り組にたのまれて山車にのり、競り合いに出たと聞いております。笛と太鼓と一体の笛の曲でなければ、競り合いに勝てないので、高音だけで切り返す以前の笛の曲と違った、金胴と一体の曲を作曲したのです。
以後切変え時別々の二つの笛の曲が私に伝わったのです。以前はやたいの笛の曲は競り合いの時だけの曲でしたので高音が多く吹かれて居りました。それに私が流し笛や地の曲を作曲し、今のやたい競り合いばやしの笛の曲になりました。
また昇殿の曲は半紙に曲が書いてあったので音にしたものです。
私は神立組と湧玉会で約40年間笛を吹いてきました。その間、請われて神立、福知、神賀、松山、貴船、宮本の各区でも笛を吹きました。
昔は囃子は教えられるものではなく、見て盗むものだという考えが大勢を占めていましたので、囃子方以外は太鼓に触れることすら許されない状態でした。まして他の町内の笛吹きに教わる事などできなかったので、笛吹きの数がだんだん少なくなってしまったのです。一時は祭りで山車屋台が出ても市内に一二名の笛吹きしか無く、大変淋しかったものです。また一方で、せっかく囃子を覚えても地元を離れてしまうといったケースも有り、後継者育成といった意味からは、今でも私は特に笛吹きは地区の青年の中で長男で有り、永く区内に居る人でなければと思っています。
昭和30年代後半から40年代初めにかけて、青年の減少、交通事情悪化による山車・屋台の運行困難といった事態から祭りが著しく衰退した事がありました。そんな中で昭和41年には祭りの衰退に歯止めをかけようと、富士宮囃子保存会が発足しています。
当時副会長でいらっしゃった高橋星山先生の勧めも有りまして、市内の各区の青年に笛の指導をとの趣旨で、富士宮市社会教育課の主催で笛の講習会を開きました。神立、宮本、羽衣、日の出区の青年が六名来ましたが、中には本式に笛を吹けるまでに到らなかった方も有りました。それを発端にその後神田、木の花、貴船、浅間、羽衣、神賀の青年、子供にも笛を指導しました。今では二代目、三代目の笛吹きがそれぞれ育ち、今では各町内に数名の笛吹きも在り、にぎやかな祭りになったと喜んで居ります。
今年の祭りには私は各区のおはやしを聞きながら西から東まで足を運びました。それをテープに録音して楽しく聴かせていただいております。
惜しむらくは、遠くまで聞こえる笛の音、又玉入を吹く笛吹きが一人も無かった事がとても残念でした。遠くで聞こえる笛の音は実にすばらしいのです。吹き方としては波調をおびた吹き方をするのです。また指をつかわず、玉入とゆう笛の吹きかたもあるのです。笛の曲は大胴の曲と同じで、アドリブで自分だけの曲が作曲でき、自分の笛の曲に取り入れる事が出来るのが、富士宮ばやしのにくづし、やたいなのです。
明治、大正、昭和の時代のおはやしの先輩たちが伝え、ご指導下さった富士宮ばやしの曲は、勇壮、豪快、繊細にして華麗なる組曲で、日本でも最高のランクに有ると私は確信しています。笛吹きの皆様、どうぞそれぞれ個性を、もっともっと伸ばしていっていただきたい。そして湧玉会有賀流の祭り笛を、末永く伝えてほしいと希望する次第です。
湧玉会 有賀敏治
平成元年11月 記
※ 平成14年3月 没