昔宮本区長を務められた山田貞蔵氏に伺った話です。
昭和初期、山田氏が青年長を務めていた時の事です。
湧玉御幸が神田通りと本町通りを繋ぐ横道の春田眼鏡屋さんのあたりで、前後を二つの町内にふさがれ進むも退くも出来なくなったそうです。
どちらが道を譲るかを囃子で競うのが競り合いですから、力も余計に入ります。
このままでは、動けないまま囃子が疲れて止まってしまうと心配されました。
ところがこの時、
「御幸の山車が挟まれたぞ」
と西町各町内に報せが飛び、西町各町内の囃子方が半纏を脱いで駆けつけたそうです。
同じ湧玉の囃子を継ぐ仲間という意識から、放っては置けなかったのでしょう。
御幸の囃子方と次々に交代して囃し続け、交代メンバーはまだまだ後ろに控えています。
これには挟んだ町内の方が分が悪く、とうとう道を譲ったとの事。
湧玉の囃子方にはこう言った交流があったようで、それを示す好例です。
大正14年に写された湧玉御幸囃子方の姿です。
「御幸」の上に「湧玉はやし」とあるのが親名の意味を表しているものでしょうか。
現在だと親名の湧玉に町名を続けますが、親名の示す意味は同じ湧玉の囃子を継いでいるという事なのかも知れません。
昭和4年当番町 瑞穂、咲花、御幸、立の記念写真
当番町にあたったときには広く町中を引き回したと言う事から、あるいはこの年の事だったのかも知れません。
また、当番町の年に欠畑まで山車を曳き進め、日が暮れるたので山車を預けて帰り、山車は預かった町内の青年が寝ずの番をしたそうです。
当番町も何年かに一度回ってくるものですから、これらが同じ年とは言えませんが、でこぼこの砂利道と道路事情も悪い中で、かなりの遠出をしたものですね。
大正14年の湧玉御幸囃子方です。
挟まれたのが昭和4年の事だったら、この方達も現役の囃子方だったのでしょう。
競り合いを巡る争いの話はよく聞きますが、一方でこんな交流があったことも忘れてはならないでしょう。
参考文献
袖日記 大宮浅間秋祭り夜噺 囃子方の弁 富士宮囃子1 富士宮囃子2
加藤長三郎氏講演 笛今昔 秋祭り 英文解説
伝説・こぼれ話