神田川原にのろしを上げて

・神田と立宿で喧嘩になったことがある。その場は分かれたもののおさまらず、神田川に集まり喧嘩に行こうとしたが、西町が通さなかったので事無きを得た。

平成元年5月30日に秋まつり青年協議会の全体会議に加藤長三郎氏をお招きして、昔の祭りの話を伺いました。
その中で出てきたエピソードです。

喧嘩に行こうとする若い衆は、通す訳には行かぬと足止めされました。しかしおめおめと引き返す訳には行かず、しんしんと冷える晩秋の夜なので焚き火に当たりながらとうとう朝を迎えてしまったといいます。地元の新聞はこの事を「神田河原にのろしを上げて」と面白可笑しく書き立てたとの事。

浅間大社青年会、地元消防団でご一緒したA君がこの話を聞いたときに、原因は彼のおじいさんだと思ったといいます。

彼のお父さんは囃子保存会で講師を務めるほどの笛の名手で、私も師事しようと門を叩いた事があり、その時に家にいらっしゃったおじいさんが、昔話に笛の事を話して下さいました。おじいさんも笛の名手で、頼まれて近隣の祭りに笛を吹きに行く事があり、吉原の祇園祭で吹いたときに笛玉を入れて笛を吹いたところ、地元の笛吹きがどうしてその音が出るのかと食い入るように見ていたと言う事でした。
全部通しで笛玉で吹く事が出来たと、自慢げに話していたのを思い出します。

A君のお父さんが「富士宮ばやしの笛今昔」という文章をA君に言付けて私に下さったのですが、その中にA君のおじいさんについて書いた部分があります。

「父は大胴タタキの名手でも有り、競り合いとなると別の祭り組にたのまれて山車にのり、競り合いに出たと聞いております。」

A君がおじいさんから武勇伝を聞かされて育った事から、先の話もおじいさんに違いないと思ったのでしょう。

でも、こんな事を「はやし方の弁」にうちの町内の区長を務められた井上歳丸氏が書いていらっしゃいます。

「『聖天(ショウデン)』『四丁目(シチョウメ)』とう三味、ツヅミなどが入って屋台ばやし、『ニクズシ』、『ヤタイ』が山車ばやし、何といっても大宮ばやしの真骨頂はこの山車ばやし、いわゆる喧嘩ばやしといわれる『ヤタイ』です。別にはやし方が喧嘩したわけではないのです。セリ合で技を競うのに祭酒に酔いしれたくだらないのが意気がって立廻りをやらかしたりしたために名誉ある異名を取ったわけです。」

喧嘩囃子の異名を取るほどの囃子であっても、実際に囃子方が喧嘩した訳ではないとの事。A君が心配するような事も無かったのでは。

加藤氏が「西町が通さなかったので事なきを得た」と言うように、揉めると判っている事は誰しも避けたいもの。西町というのは今言う所の西町では無く、神田川以西が昔は大宮西町だったことから神田川以西の総称だったのでしょう。

この件を下敷きに、創作「遠音 祭りが終わる時」の「橋の上で」を書きましたので、御覧頂けたら幸いです。

参考文献

袖日記 大宮浅間秋祭り夜噺 囃子方の弁 富士宮囃子1 富士宮囃子2
 加藤長三郎氏講演 笛今昔 秋祭り 英文解説

伝説・こぼれ話

富士宮の特殊事情 物騒な話 湧玉囃子 血染めの笛 鉾立石
神田川原にのろしを上げて 露店が無かった祭り

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